無責任な妄言

顔の良い男を浴びるほど見ていたい

皆川博子『死の泉』をフォロワーにはおすすめしたくない

 

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:皆川 博子
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: 文庫
 

 自分が読み、面白いと感じた本を家族や友人に勧めるという習慣は読書家ならごく当たり前にあるものだと思う。

特にSNSなど共通の趣味で繋がっている友人に対してなら、きっと自分と同じところで面白がり、楽しんでくれると確信して布教をするはずだ。

しかし私は、この作品に対してだけは「絶対に誰にも勧めたくない」と読了後感じてしまった。無論、それはこの小説がつまらないからとか、特定の何かに対する侮辱や差別的な表現があるとか、そういう問題ではない。ただ純粋に、圧倒的な物語の力、巧みな伏線布石により辿り着いた驚天動地のラストシーンに、そう思わされてしまったのだ。

 

物語の舞台は第二次大戦下ナチスドイツ。語り部のマルグレーテはある事情から父親の名前を明かせない私生児を身ごもり、未婚女性を保護し出産を支援する施設「レーベンスボルン」に身を移す。

レーベンスボルンは「純粋な金髪碧眼たるアーリア人による帝国を作る」という当時のナチスドイツの思想の元、軍人などの子を身ごもった未婚女性を保護したり、彼女らが生んだ児を母親の代わりに育て里親の元へ届ける、産院と児童保育施設を兼ねた施設である。マルグレーテはそこで看護婦として働きながら、いずれ生まれる自らの子がどのような運命を辿るのか不安を抱く日々を暮らしていた。

ある日彼女は、ポーランド人収容施設から移された美しい声を持つ金髪碧眼の少年エーリヒとフランツに出会い、さらにエーリヒの美しいボーイソプラノの声に異常な執着を見せる医師クラウス・ヴェッセルマンにエーリヒ・フランツの義母となるようプロポーズを受ける。未婚の母からエリート医師の妻、二人の少年の母親とあれよあれよという間に生活を一変させるマルグレーテ。しかし彼女に待ち受けていたのは決して安穏の日々ではなく、狂気の渦巻く美と悪徳の世界だった――

 

いかにもその道のオタクが好きそうなあらすじだし、実際その道のオタクが大好きな要素がワンサワンサと出てくる。

耽美オタクとして勧めたいのはやはりエーリヒ・フランツの義兄弟関係だ。元々はポーランド人で少年聖歌隊に所属していた二人だが、ナチスドイツの魔の手により出自をドイツ人と偽り暮らすはめになった齢十にも満たない少年たち。まだ幼いエーリヒはつらい過去を忘れていくが、兄フランツはナチへの憎悪を捨て去ることができない。エーリヒに危害を及ぼそうとしているクラウスに対しても警戒するが、しかし心のどこかで父性を求め必死で「帝国の男児」を演じようとする。

そして第二部以降、ヴェッセルマン夫妻の手を離れ流浪の日々を送る兄弟。自分達に向けた異常な仕打ちに対する復讐をしようとクラウスを狙う二人だが、フランツはエーリヒの「美しい声」を保つため、クラウスから教示された発声法を指導し続ける。エーリヒが自らの「女性と間違うような美しいソプラノの声」を内心忌んでいることを知りながら……。

語り部マルグレーテによる幻想的な語りも魅力的だ。第二部、衝撃と恐怖により精神を病んでしまったマルグレーテは狂気の世界に身を浸す。かつての想い人ギュンターと少年フランツを同一視して少女のような恋心を抱いたかと思いきや、我が子ミヒャエルの姿を見失い彷徨い泣き喚く姿、双頭の怪物、結合された双子の美少女の幻想……様々な視点の中に混在して映し出されるマルグレーテの狂気幻想は読みづらさもあるが、まさにこの作品らしい妖しげな美しさの象徴である。

義兄弟の狂おしい愛情と、母親と少女の間を行きつ戻りつする女性の狂気。これらは本来絶対にフォロワーに何がなんとしても読ませたいものであった。しかし、それを躊躇させる要素がこの作品にある。

それがこの物語を支配する、狂気の医師クラウス・ヴェッセルマンの存在であり、彼がこの作品において張り巡らせた陰謀なのだ。

彼は、自身は醜い小男ながら、彼が美を見いだしたものに対しては異常な執着を見せる。性を超越したボーイソプラノ、それを維持せんがために去勢し恒久的な美声を得たカストラート、母と少女のアンバランスな二側面を持つマルグレーテ、フェルメールを始めとした芸術品の数々、ヒトラーの悪魔的な思想……彼はそれらを蒐集し、手中に収めるためにありとあらゆる悪徳を尽くす。我々読者は時にその姿に圧倒され、魅了され、そして恐怖することになる。

 

あえて先に言ってしまおう。この作品には「どんでん返し」が存在する。

この小説を開いて読めば五秒と経たずわかることだが、この作品は「ギュンター・フォン・フュルステンベルク」なる人物が発表し、それを日本語訳したものという体裁を取っている。なぜそのような形式を取ったのか? その答えは、この作品の「あとがき」を読めば理解できる。

小説を読み終わり、終幕に胸を撫で下ろした読者は、すぐさまこの「あとがき」によって慄然とするだろう。それまでまったく意識していなかった作品のメタ構造の網にからめとられ、そして不安と恐怖によって構成された前後不覚の闇の中に放り込まれるのだ。

作品内でのクラウスの悪魔的所業に恐怖し、兄弟たちの悲劇的な運命に涙しながら、しかし「それでも最後はきっと善人が報われる、大団円となる」と無意識に勧善懲悪を期待してしまっていた私は、この作品の仕掛けに見事にかかり、思わず体調を崩しかねないほどの不安に襲われた。「怪物」クラウスの企みが想像を遥かに上回るものであったことを悟り、この小説が形ながらのハッピーエンドを迎えたことに吐き気や嫌悪感すら抱く。さらに言えば、物語に対して抱いた感情すら、この怪物の掌の上であったことに気づかされてしまうのだ。

殺人事件が起きない、名探偵やパズルも登場しない、そんな作品になぜSF「ミステリ」というカテゴリーがなされているのか、最後まで読み終えれば否が応でも理解するだろう。

メタ構造の作品は以前にも何度も触れたことはあるが、「読者」として、「作品の著者」に弄ばれる感覚を抱いたのはこれが初めてだった。

 

決してつまらない小説ではない。641ページという長編を全く飽きずに没頭させられる名作である。

しかし、こんな強烈な読書体験を信頼できる友人に勧めてもいいのか。あるいは私以上に打ちのめされてしまうのではないか。何より面白いからこそ、読ませることを躊躇してしまう。そんな危惧を抱かせる、稀有な作品であることは間違いがない。

 

 

 

 この作品も気になっているが、「死の泉」と同様のことになってしまったらどうしようと思うとなかなか手が出せない。